上原ゼンジ
私は、人の意図を離れて現れる現象を観察し、写真として記録しています。
道路に落ちたペンキの跡、時間の経過で壁に浮かび上がった模様、アスファルトを破って芽吹く植物——世界が自ら働き、形を生み出していく姿を、私は「無作為の仕事」と呼んでいます。これは赤瀬川原平の「超芸術トマソン」に影響を受けていますが、トマソンが「実用から無用への転化」に着目したのに対し、私はもともと無用なものや生命の営みなど、より広く人の意図を離れた現象全般を対象としています。
また、身の回りのものや日常の光景の中に、別の姿を発見することもあります。うずらの卵を接写してネガに反転したら、そこには白い雲と青い海の惑星が現れました。わざわざ遠くまで絶景を撮影に行くよりも、視点を変えた身近な発見のほうが価値があるし楽しい。ネガ反転やモノトーン化といった単純なエフェクトは、イメージを押し付けるためではなく、すでにそこにある別の側面を引き出すためのものです。うずらの惑星は、その後の対話を通じて三日月になり、太陽になり、やがてうずら星系へと発展しました。こうした発見から始まる対話の中で、新たな世界が静かに生まれていきます。
自作の装置を使った撮影も、同じ探求の延長にあります。宙玉レンズや手ブレ増幅装置、撮影用万華鏡——これらの装置は、偶然や無作為を写真の中に取り込むためのものであり、作為を中和し、世界の別の面を可視化する試みでもあります。
「無作為の仕事」を見つけること、身近なものに潜在する姿を引き出すこと、装置によって世界の別の面を現れさせること——アプローチは異なりますが、いずれも作為を手放し、世界に応答するという点で共通しています。
私が出会いたいのは、名前が付く前のもの——「不思議」や「センス・オブ・ワンダー」、言葉になる前の美そのものです。それは街を歩きながら発見するものであると同時に、世界から呼びかけられ、見られているものでもあります。
写真を撮る行為は、私にとって世界との対話であり、その痕跡を記録することです。
私は世界を「人が見るもの」ではなく、「ともに動いているもの」として捉えています。
写真に写るのは、出会いの瞬間の記録であり、世界が呼吸する証です。
錆も、芽吹きも、ともに世界の息づかいです。
