Ⅱ. 超芸術トマソンとは

Ⅱ. 超芸術トマソンとは

「不動産に付着していて、美しく保存されている無用の長物」 — 赤瀬川原平

超芸術トマソンは、赤瀬川原平が提唱した芸術概念である。定義だけでは少し抽象的に思えるかもしれない。まずは実例を見てほしい。

1. 窓のない庇

庇と手すりはあるが窓が塞がれた外壁の写真
庇と手すりが残り、窓だけが消えた外壁。機能を失っても、かたちだけが保存されている。

この写真を見て、どこか不思議に感じるだろうか。庇があり、手すりがある。だが、窓がない。かつてここには開口部があり、外との往来があったのだろう。しかし改築の結果、窓は塞がれ、庇も手すりも意味を失った。こうした「機能を失ってなお残る構造物」こそ、超芸術トマソンである。

2. 行き止まりの門

門のすぐ裏を新しいビルの壁が塞いでいる写真
開いても進めない門。役割は消え、存在だけが残る。

これは立派な門のように見える。だがその先には、すぐビルの壁が迫っている。開けても進めない。つまりこの門は、もはや門としての役割を果たしていない。それでも美しく保存されている。その無用の存在感が、私たちに奇妙な美を感じさせる。

3. 芸術を超えるということ

「超芸術」とは、芸術を超えた芸術という意味である。だが何をもって“超えた”と言えるのか。近代以降の芸術は、マルセル・デュシャンを起点に大きく変化した。1917年、デュシャンは男性用便器に「R. Mutt」とサインをし、それを《泉》と名づけて展示した。既製品をそのまま芸術とすることで、芸術の定義そのものを反転させたのだ。

赤瀬川は、さらにその先を行った。デュシャンが「既製品を芸術とみなす」行為をしたのに対し、赤瀬川は「すでにあるものを発見する」だけで芸術とした。つまり、作らずに見つける。ここに「観察者はいても製作者はいない」という、芸術の根本を揺さぶる発想がある。デュシャンが“芸術を裏返した”とすれば、赤瀬川は“芸術を脱ぎ捨てた”と言えるかもしれない。創造や表現といった行為を越えて、世界にすでに存在してしまっている“無用の形”をそのまま受け取る。

洒落のわかるデュシャンなら、きっと微笑んだだろう。なぜなら、そこには深刻さよりも、遊びと驚きの精神があったからだ。トマソンとは、そうした「世界へのユーモラスなまなざし」なのだ。

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